新大橋

(シンプルなデザインの斜張橋)

 新大橋は新大橋通りが隅田川を渡る橋で、昭和52年(1977)に架け替えられた斜張橋です。 初代の新大橋は徳川5代将軍綱吉の時代に両国橋に続く下流部で2橋目の橋として架けられました。 先代の新大橋は関東大震災で避難の道として大勢の人を救った橋で、一部が明治村に移設されています。

〔目次〕

新大橋

新大橋

写真出典〕当サイト撮影(H31.4)

新大橋の諸元等

新大橋

新大橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、2005、P.15

 現在の新大橋(しんおおはし)は、新大橋通りが隅田川(すみだがわ)を渡る橋梁で、昭和52年(1977)に架け替えられた斜張橋(しゃちょうきょう)です 1)

  • 橋梁名 ‥ 新大橋
  • 道路名 ‥ 新大橋通り(都道50号東京市川線、放射第31号線)
  • 所在地 ‥ 東京都中央区日本橋浜町(はまちょう)二〜江東区新大橋一
  • 創架 ‥‥ 元禄6年(1693)
  • 開通年月 ‥ 昭和52年(1977)12月18日
  • 橋長×幅員 ‥ 170.0m×24.0m
  • 型式 ‥‥ 2径間連続鋼斜張橋

現橋への架け替え

新大橋

新大橋の横景

写真出典〕当サイト撮影(R2.7)

新大橋のライトアップ

新大橋のライトアップ

写真出典〕当サイト撮影(R4.5)

 現橋は昭和52年(1977)12月に供用を開始された、2径間の斜張橋です。 斜張橋は、取り付け道路の関係から桁高を極力低くすることや、橋脚が1基で湾曲する航路を阻害しないこと、斜張索で吊った単純な橋上構造のため通行者に閉塞感を与えないことなどにより選ばれました 1)

新大橋の歴史

江戸時代

 初代の新大橋は、徳川5代将軍綱吉の時代の元禄6年(1693)12月に、現在よりやや下流の地点に、両国橋に続く下流部で2橋めの橋として架けられました。 当時の橋の規模は、橋長197m(100間)、幅員6.1m(3間7寸)とされています 1)

 新大橋は、維持管理に多くの費用を要したため、享保(きょうほう)の改革により、永代橋に続いて延享(えんきょう)元年(1744)に民営化されましたが、文化4年(1807)の老朽化による永代橋の落橋事故の翌年、幕府管理に戻されて架け替えられました 3) 4)

明治〜大正時代

洋式木橋への架け替え

 明治新政府は、隅田川下流部4橋のなかで最後となる明治18年(1885)4月に新大橋を洋式木橋に架け替えました 1) 4)

新大橋(明治七年頃寫眞)

新大橋 明治七年頃寫眞(嘉永2年(1849)架設の橋)

写真出典〕中央区区立図書館HP

明治18年4月架橋 新大橋

明治18年4月架橋 新大橋(洋式木橋)

写真出典〕土木学会図書館HP

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/01_image/large/0113179.html

鋼橋への架け替え

 明治45年(1912)7月19日に、隅田川5大橋の中では最も遅く鋼橋に架け替えられました。 鋼橋の新大橋は、全長173m、幅員18.6mの3径間鋼プラットトラス橋です。 設計施工は東京市が行い、鋼材はアメリカのカーネギー社製のものが使われました。 床版は厚鋼板にコンクリートを打設してアスファルト舗装が施されました。 重厚感のある骨組とは対照的に、正面上部に掲げられた装飾性の高い橋名板や歩道高欄、親柱などの優美なデザインにも特徴がありました 2) 3) 4)

関東大震災とその後

 大正12年(1923)の関東大震災で、床版などに木が使われていた隅田川の他の鉄橋が焼失する中で、床版がコンクリートだった新大橋は焼失せずに避難の道として多数の人命を救ったため、「お助け橋」と呼ばました。

 明治期に架けられた新大橋は、老朽化による架け替えのため、昭和49年(1974)6月に「渡りおさめ」が行われ、昭和49年(1974)10月〜昭和50年1月に撤去されました 2) 3) 4)

旧橋の保存

 明治45年(1912)に架設された新大橋の一部が、愛知県の明治村に移築されています。 都心側の一径間の半分の25m分が移築され、白い花崗岩製の親柱とともに展示されていて、平成16年(2004)には国の登録有形文化財になっています 1) 2)

 また、中央区側の橋名板は、区民有形文化財として区が保有し、江東区側の橋名板は江東区登録有形文化財として近隣の小学校に展示されています 3) 4)