勝鬨橋

(重要文化財になった跳開橋)

 勝鬨橋は、晴海通りが隅田川を渡る橋梁で、昭和15年に架けられた、万国博覧会の会場のメインゲートとなる筈の橋でした。
 橋の側径間はタイドアーチで、中央径間はハの字型に開いて船を通せる、わが国最大規模の跳開橋で、昭和45年までは開いていました。 『技術的に優秀なもの』として重要文化財に指定されています。 橋のたもとには『かちどき橋の資料館』が設けられています。

勝鬨橋の諸元等

勝鬨橋

勝鬨橋

図表出典〕東京都、東京都の橋、1997、P.14

 勝鬨橋(かちどきばし)は、晴海通り(はるみどおり)が隅田川(すみだがわ)を渡る橋梁です。 隅田川の河口から0.5km上流に架けられており、長らく隅田川の最下流の橋でしたが、現在は環二通り(かんにどおり)の築地大橋(つきじおおはし)に次いで下流から2つ目の橋になりました。 橋の中央径間(けいかん)がハの字型に開いて船を通せる跳開橋(ちょうかいきょう)で、重要文化財に指定されています 1)

  • 橋梁名 ‥ 勝鬨橋
  • 道路名 ‥ 晴海通り(都道304号日比谷豊洲埠頭東雲町線、放射第34号線)
  • 所在地 ‥ 東京都中央区築地(つきじ)〜勝どき
  • 開通年月日 ‥ 昭和15年(1940)6月14日
  • 橋長×幅員 ‥ 246.0m×22.0m
表−勝鬨橋の型式と施工者
築地側 中央 勝どき側
橋台 側径間 橋脚 跳開桁 橋脚 側径間 橋台
支間 86.0m (25.8+25.8)m 86.0m
形式 半重力式 鋼タイドアーチ橋 半重力式 シカゴ型固定軸
双葉(そうよう)跳開橋
半重力式 鋼タイドアーチ橋 半重力式
施工 東京市直営 横河橋梁 銭高組、
宮地鉄工所
神戸川崎車輌
(現:川崎重工)
銭高組、
宮地鉄工所
東京石川島造船所
(現:IHI)
東京市直営
※ 機械‥渡辺製鋼所、電機‥小穴製作所
図表出典〕当サイト作成

跳開橋

運転室の操作台

運転室の操作台

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

資料館の跳開する勝鬨橋の模型

資料館の跳開する勝鬨橋の模型

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

 勝鬨橋は大型の船舶が通航する際に中央径間の桁が跳開する橋で、橋の完成当初は通航する船があれば1日5回、次の時間に開いていました 1)

  • 4月〜9月‥午前5時半、午前8時半、正午、午後3時、午後6時半
  • 10月〜3月‥午前6時半、午前9時半、正午、午後2時、午後4時半

 橋脚の上にある4つの部屋の一つが運転室で、次の手順で開閉していました 1) 2)

  • 陸上の信号を赤にして橋梁上の交通を止める。
  • 突桁先端のシェアーロックとリアロック、路面電車の軌条ロックを開錠する。
  • 桁の上昇運転を始めると70秒で橋は70度の角度で開く。
  • 水路用の信号を青にして船を通す。

 船を通す時間は20分程度で、橋の開閉は、都電が開通した昭和22年(1947)には午前8時、正午、午後3時の1日3回に減り、晴海通りの渋滞が顕著となった昭和36年(1961)には午前7時の1回のみとなりました 3)

 年間の開閉回数が最も多かったのは昭和25年(1950)の829回で、昭和39年(1964)には70回まで減りました。 船を通すための開閉は昭和43年(1968)が最後で、その後の試験跳開も昭和45年(1970)11月29日が最後となりました 4)

重要文化財指定等

 勝鬨橋は、平成19年(2007)6月に、清洲橋永代橋とともに重要文化財に指定されました。

 重要文化財の指定基準のなかでは、『技術的に優秀なもの』とされ、解説文では、『勝鬨橋は,海運と陸運の共栄を意図した特殊な構造形式で,国内唯一のシカゴ型二葉式跳開橋として,貴重である。また,国内最大の可動支間を有する大規模かつ技術的完成度の高い構造物であり,近代可動橋の一つの技術的到達点を示している。』とされています 1)

 景観デザインとしては、『皇紀2600年を記念して開催予定であった「国際博覧会」のアクセス路であったため、格式があり日本の技術力を誇示する橋が求められた。 博覧会は中止となったが「東洋一の可動橋」と呼ばれた。 今も近隣有志の記憶の中で開閉されている。』との評価も受けています 2)

 また、跳開部の機械設備は日本機械学会に機械遺産として認定されています 3)

「かちどき橋の資料館」と「橋脚内見学ツアー」

かちどき橋の資料館の内部

かちどき橋の資料館の内部

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

 築地側の橋のたもとにある旧勝鬨橋変電所が「かちどき橋の資料館」として週に4日間(火曜日・木曜日・金曜日・土曜日)、無料で公開されています。 資料館には、勝鬨橋を動かしていた発電機や電気設備の配電盤が残されているほか、勝鬨橋の模型や資料なども展示されています。

 勝鬨橋の橋脚内の見学ツアーも事前申し込み制で行われています。

勝鬨橋の建設経緯

東京会場図

日本万国博覧会概要の東京会場図に示された勝鬨橋 (1938)

図表出典〕紀元二千六百年記念日本万国博覧会概要 1)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1216832

 勝鬨橋の海側の月島地区(つきしまちく)には、石川島造船所などがあり既に市街化されていました。

 隅田川の派川を渡り江東区側と連絡する清澄(きよすみ)通りには、明治36年(1903)相生橋(あいおいばし)が架けられていました。

 隅田川を渡り都心側と連絡していたのは、佃(つくだ)の渡し、月島の渡し、勝鬨の渡しの3つの渡しでした 2)。 勝鬨の渡しは3つの渡しの最後に開設された渡しで、明治38年(1905)1月の日露戦争の旅順陥落を祝って有志が設けて東京市に寄付をしました 3)。 この3つの渡しの利用者は昭和5年度(1930)には1340万人(日平均3万7千人)と、現在のJR山の手線の目白駅の乗車客数に近い多くの人が渡しを使っていました。

 勝鬨橋の架橋は、明治44年(1911)に架橋の建議が東京市議会に出されて調査費が認められ、大正4年(1915)8月には形式などが決まりました。 しかし、その計画もその後の計画も、第一次世界大戦(1914〜1915)で鉄の価格が暴騰したことや、関東大震災(1923)があったため実現しませんでした。 震災復興で晴海通りが幅員27mに拡幅整備されたことや、月島の先の晴海などの埋立地を価値を高めて売却する必要があったことなどから、昭和5年(1930)に東京港修築計画のなかに含められ架橋が決定しました 5)。 晴海・豊洲地区では万国博覧会が開催されることとなり、博覧会場のメインゲートとなる橋になりました。

渡河型式の選定

 隅田川河口部は、昭和初頭頃まで港の機能がある水域で、河岸には倉庫や工場が立地し、背の高い船も航行していました 1)。 昭和5年(1930)に勝鬨橋付近の隅田川には、日平均1,257隻の船が通航していました。 そのうち、2km上流にある桁下高6.6mの永代橋を通れない船は121隻で、その内訳は定期的に通航する東京湾汽船会社の船、季節的に集合する帆船、石川島造船所の新造船などでした 2)

 渡河形式としては、取付部が長く沿道の利用が不便になる海底トンネルや高架橋ではなく、限られた大きな船が通航するときのみ道路交通が遮断される可動橋が選ばれました。 可動橋の形式としては、航路を狭めてしまう回転橋や、桁を高いところに上げるため耐震性の確保が容易でない昇開橋ではなく、片側が故障しても半分は航路が確保できる跳開橋が選ばれました 3)

設計

トラニオン軸

トラニオン軸

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

 勝鬨橋の設計は、東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと、東京市技師の瀧尾達也と安宅(やすみ)勝が行いました 1) 。 可動部は回転軸(trunnion axis)で回るようになっていて、回転軸から突桁の先端までは25.8mあり、回転軸の反対側にある半径7.2mのカウンターウェイトでバランスを取っていました。 突桁とカウンターウェイトの合計2000tの橋桁が、70度まで開くようになっています。 橋脚はカウンターウェイトが降りてくるため15m×33mと非常に大きなものとなっていて、橋脚の中には可動桁を動かすモーターや歯車が、橋脚の上部には運転室などが設けられています。 突桁の先端には、橋を閉めたときに双方の突桁に食い違いができないよう固定するシェアーロック(shear lock)が設けられています。 築地側の橋のたもとには、交流で受電した電力を直流に変換する変電所が設けられています 2)

可動径間側面

可動径間側面

図表出典〕隅田川築地月島間連絡可動橋の計画 2)

施工

 勝鬨橋は、昭和8年(1933)6月に起工され、当初は4ヵ年の事業とされていました。 しかし、昭和12年(1937)には日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が制定されるなど、労働力や資材の調達が難しい時代となり、7年後の昭和15年(1940)5月に竣工しました 1) 2)

 工事は4期に分けて進められ、第1期工事は橋台や護岸、第2期工事は橋脚と月島側アーチ桁、第3期工事は中央径間可動桁や橋脚の上部、第4期工事は築地側アーチ桁などの工事で、橋脚の仮締切りや橋台は東京市の直営工事、橋脚は銭高組や宮地鉄工所、橋桁は神戸川崎車輌、横河橋梁、東京石川島造船所などが行いました 3) 4)

勝鬨橋竣工後の改良等

勝鬨橋の歩道舗装や街灯

勝鬨橋の歩道舗装や街灯と跳開橋の操作室

写真出典〕当サイト撮影(H29.12)

勝鬨橋のライトアップ

勝鬨橋のライトアップ

写真出典〕当サイト撮影(R4.5)

 維持補修では、昭和53年度(1978)に中央径間車道部床版の鋼床版への取替えやシェアーロックの取替えが行われたほか、塗装などの工事が適宜行われています 1)

 景観整備では、著名橋整備事業で、昭和63年度(1988)から平成3年度(1991)にかけて、月島側の歩道を拡幅して歩行者空間が整備されたほか 2)、歩道の御影石張りや街灯の整備、歩車道境界の防護柵設置などが行われています 1) 3)

 耐震補強では、平成28年度(2016)に支承の水平力分担構造が設置されています 4)

 ライトアップは平成3年度(1991)に整備されましたが、令和2年(2020)8月に橋の姿を白色光のグラデーションによる光で表現したものにリニューアルされました 1) 5) 6)

 昭和22年(1947)12月から昭和43年(1968)9月まで、勝鬨橋に都電が通っていました 7)

紀元2600年記念日本万国博覧会

 昭和15年(1940)は、神武天皇の即位から2600年にあたることから、第12回オリンピック大会(東京都、昭和11年(1936)招致決定) 1)、第5回冬季オリンピック大会(札幌市、昭和13年(1938)招致決定) 2)、万国博覧会(東京都・横浜市、昭和13年(1938)各国へ招待状送付) 3) 4) など、様々な記念行事が行われることになっていました。

 万国博覧会は、昭和4年(1929)に民間から開催の建議があり、昭和9年(1934)に設立された「日本万国博覧会協会」によって準備が進められ、昭和13年(1938)1月には入場券の販売が開始され、3月には各国へ招待状が送付されました 4)

 万国博覧会のメイン会場は、現在の晴海豊洲2・3丁目で、約150万uの敷地に28館の陳列館が作られる計画で、計画書の会場図には、都心から現在の晴海通りに沿って「勝鬨可動橋」と黎明橋を渡って会場の正門に至り、その先には肇國(ちょうこく)記念館が、その左右には各種の陳列館が配置されています 3) 5)

 しかし、日中戦争の影響などから、昭和13年(1938)7月、オリンピックの中止と万国博覧会の延期が決定されました。 昭和45年(1970)に延期された万国博覧会が大阪で開かれましたが、この年が勝鬨橋の開閉の最後の年となりました。

 1) 東京オリンピック、1940年 〜幻のオリンピックへ〜国立公文書館 アジア歴史資料センター
 2) 戦火に消えた幻の札幌オリンピック札幌市中央区役所
 3) 紀元二千六百年記念日本万国博覧会概要(1938、国立国会図書館デジタルコレクション
 4) 外交史料に見る日本万国博覧会への道外務省外交史料館
 5) 幻の万博(暮沢剛巳、青弓社
 6) 紀元2600年記念事業と東京東京都公文書館

築地地区

 築地地区は、勝鬨橋の都心側の地域です。 明暦3年(1657)の「振袖火事」により、浅草にあった本願寺が幕府の区画整理により八丁堀の海上に移転することとなり、大火によって生じた瓦礫などで埋め立てが行われました。 明治・大正時代には海軍の施設がおかれ、関東大震災を機に市場が移転してきて昭和10年(1935)には築地市場が開場しました 1) 2)

 現在は、築地市場移転後のまちづくりが検討されています。

 1) 築地まちづくり東京都都市整備局
 2) 築地本願寺の歴史築地本願寺
 3) 築地の歴史探訪江戸東京博物館友の会会報

月島地区
埋立の変遷

埋立の変遷

図表出典〕UR都市機構HP(一部当サイト修正)

 月島・勝どき地区は、勝鬨橋の海側の地域です。 佃島と石川島は江戸時代からありました。 東京湾の航路が隅田川から流れ出る土砂により浅海化し、船舶の航行に支障をきたすようになったため、明治16年(1883)から東京湾澪浚(みおさらい)工事が、明治39年(1906)から隅田川川口改良第1期工事が行われ、明治24年(1891)に月島1号地が、大正2年(1913)に月島3号地が完成し、月島・勝どき地区になりました。 石川島造船所(現:大川端リバーシティ21)の周辺には、関連の工場や工場で働く人の住宅が立地しました 1) 2) 3)

 平成12年(2000)に都営大江戸線の月島駅と勝どき駅が開業してからは再開発がすすみ、THE TOKYO TOWERS(2,794戸)や勝どき ザ・タワー(1,420戸)などの大型タワーマンションが立地しています 4) 5) 6)

 1) 東京臨海域における埋立地造成の歴史(遠藤毅、地学雑誌
 2) 近代化と月島の誕生中央区立図書館
 3) 月島の発展( 〃 )
 4) 勝どき五丁目地区第一種市街地再開発事業東京都都市整備局
 5) 勝どき六丁目地区第一種市街地再開発事業UR都市機構
 6) 勝どき駅前地区第一種市街地再開発事業( 〃 )

晴海地区

 晴海地区は、月島・勝どき地区の海側の地域で黎明橋などで連絡されています。 大正11年(1922)から行われた隅田川川口改良第3期工事で埋立が行われ、当時月島4号地と呼ばれた晴海地区は昭和6年(1931)に完成しました。 戦時中は軍需物資の輸送基地、戦後は進駐軍の飛行場などとして使われました 1) 2)。 昭和30年(1955)には晴海埠頭が開業し、昭和32年(1957)には670戸の公団住宅が完成し、昭和34年(1959)から平成8年(1996)には東京見本市会場が開かれていました 2)

 勝どき駅開業の翌年の平成13年(2001)に晴海アイランドトリトンスクエアや中央清掃工場が完成し、平成27年(2015)には、タワーマンションのドゥ・トゥール(約1,450戸)やベイサイドタワー晴海(約350戸)が竣工しました 3)。 現在、オリンピックの選手村を住宅にする整備が進められています 4)

 1) 東京臨海域における埋立地造成の歴史(遠藤毅、地学雑誌
 2) 晴海のあゆみ晴海をよくする会
 3) 晴海三丁目西地区第一種市街地再開発事業UR都市機構
 4) 晴海五丁目西地区第一種市街地再開発事業東京都第一市街地整備事務所
 5) 晴海ふ頭の完成と発展中央区立図書館

豊洲2・3丁目地区

 豊洲2・3丁目地区は、晴海地区の海側の地域で春海橋で連絡されています。 大正11年(1992)から行われた隅田川川口改良第3期工事などで埋立が行われ、1920年代には埋立てが順次竣工しました。 昭和14年(1939)から東京石川島造船所が造られ、戦後は都営住宅なども造られました。

 昭和63年(1988)に有楽町線豊洲駅が開業し、地区の大半を占めていた造船所が閉鎖され、オフィスビルやタワーマンションが建ち並び、ららぽーと豊洲などが立地しました 1) 2)

 1) 歴史豊洲2・3丁目地区まちづくり協議会
 2) 豊洲2・3丁目地区のまちづくりUR都市機構